HeartBreak One Run

走る。登る。回す。紡ぐ。

憧れる心は試練を超える(劔岳)

遠き神代の昔より変る事無き山の峰
万古の雪を湛えて繁吹に岩を唆む状を
現世に残す中部山岳国立公園劔岳の渓々

苦難に打ち克ち渓を渉り山を攀りしが 
敢えなくも事成し得ず 此の山渓に眠る若人を偲べば実に痛恨の極み
而れども其の高き志を御名と共に千万世まで残し伝えんと
之の社殿に納め奉り神鎮りまして 
後に続く山岳人達の平穏を天翔り国翔り守り給え

憧れる心に試練があり 試練を超えてその道を歩き続けん
私たちは自然の中に生き抜く山岳人の安全と
散華した御霊安かれとの願をこめて之を記す

昭和五十年十月五日
上市ライオンズクラブ 会長 橋本信夫
施工 浜田文二
書 吉田帰雲

 劔岳。登山口のある番場島野営場には手入れの行き届いた芝生が広がり、トチの木の作る木陰が優しい。その中には大きな石がモニュメントのようにいくつも並び、その雰囲気は美術館の庭園のようにも感じられる。けれども石に刻まれた名は、その芸術作品を生み出した作者の名ではなく、その先にそびえる岩の殿堂に挑み、命を落とした人々の名前だった。彼らが何者でどのように殿堂に挑み、散ったかが記録されている。
 駐車場に車を置き、登山口までの数百メートル。その間に僕はいくつもの碑を見つけた。この地で命を落とした人と、もしかして数時間後に同じ道を辿るかもしれない自分の運命を重ね合わせて、そうなったらまぁ仕方ないや、と若干諦めたような気分で歩を進めた。

劔岳の諭

一、劔岳は岩と雪の殿堂である 人身とも鍛錬された人々よ来れ
一、気象は激しく変動する 冷静沈着な行動に徹せよ
一、掟は厳しい 力と勇気をもって苦難に挑め
一、自然は生命を躍動させる 無垢な姿をとこしえに
一、山に寄せる心のたかまり 劔岳は逞ましさと豊かさを育くむ

一九七五年一〇月一二日 立山ライオンズクラブ

 能登島で見た、凪いだ富山湾と春の澄んだ青空と白く輝く北アルプス。その美しさに心を奪われた。いつかあの場所に行きたいと思った。あの稜線を歩く自分の姿を想像できた。あれは5年ほど前だったか。2年前から挑み、挫折を続けてきた早月尾根。今思えば、勇気(理性)ある撤退だったと思う。1年前の自分にこの道を踏破する力があったとは思えない。2年前なら猶更だ。ここに辿りつくまでの様々な経験。長い藪漕ぎや別山から南竜に向かう切れ立った道のり。ガスに巻かれてのロスト。雨に打たれ風に吹かれながら進んだ加賀禅定道。

 さまざまな成功や失敗を経て。
 2019年8月3日。
 ようやく僕は1つの試練を超えることができた。


 山頂では強烈な日差しが絶え間なく突き刺さり、遥か遠くまで…とまでは言えないものの、立山までであれば十分見えた。ふもとの小屋、テン場。カニのたてばいだかよこばいだかで渋滞している色とりどりの山岳人。僕は早月尾根しか知らないから、有名なこのポイントの恐ろしさをまだ知らない。山頂には20人くらい居ただろうか。神社の前でおおはしゃぎする人。黙々とロープの手入れをする人。景色をおかずにご飯を食べる人(私も含む)。山頂から見下ろす早月尾根はこれから下ることを考えると本当に辛かった。このサメの歯のような切り立った峰々を延々と進むくらいなら、カニの横ばいの一瞬の恐怖なんてたいしたことないんじゃないかとも思った。そうか。僕にとってこの山頂はゴールじゃないんだ。ここを下って週明けには仕事に行く。来週は楽しみな飲み会も控えている。来週の休みはどこに行こうか。それが過ぎたらお盆だ。今年の挑戦は富士山。Finetrackのtokyo baseでツェルトの張り方講座にも申し込んでいるし、職場の同僚を山に引き込みたいとも思っている。まだまだやりたいことはいっぱいある。僕の身心は劔の山頂にありながら、心はもっと先にいた。

 今回の挑戦を経て、登りについてはそれなりに自信が持てた。ただ、核心部の下りには課題が満載だった。岩場でストックを締まった状態でいかに落ち着いてスピーディに下ることができるか。いかに恐怖に打ち克つか、だ。一方で後日。僕が恐怖を抱いた場所で事故が頻発していたことを知る。一歩一歩三点支持を取るのは確かに時間もかかるし、後続(早月だとあんまりいないけど)にも迷惑かもしれない。けれども滑落事故を起こす確率は相当下げられるし、実際この一週間前に早月の雪渓で滑落事故があったことを後日知った。
 水は4Lは欲しかった。持参していた3Lのうち、2.5Lは早月小屋に戻ってくるまでに消費。残り0.5Lも小屋でカロリー摂取の際に大方消費してしまい、以降3時間続く下りは非常に辛かった。結果、全工程でかかった時間は12時間。体力にはまだ余裕があった。水さえあればもっと早く進めたとは思う。

この反省をもとに、数か月後、もしくは来年の僕はもう一度この道を歩きたいと思うだろうか? 少なくとも今しばらくはちょっと遠慮したいが。

 『試練と憧れ』。人は簡単に達成できてしまうゴールに憧れは抱けない。手に入らないから欲しくなる。人と目標(目指すべき先)との間にそびえる試練。試練に散った命。命の上に広がる豊かな自然。僕を取り巻くいろんなものを踏みしめて、僕は歩いていくのだろう。

Life is beautiful !!!

早月川。上流のほうだと思われるのに、なんでこんなに川幅が広いのだろう?

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テーマの著者 Anders Norén